バラの挿し木の基本的なやり方

玄関先のレンガの隙間から甘い香りが立ちのぼり、ふと足を止めると、小さなバラの苗が風に合わせて首を揺らしていた。思わずしゃがみ込み、その華奢な茎の根元を探る。植えた覚えのない場所に咲く一輪の赤いバラ――実はあれこそが、数年前に私が失敗覚悟で試した挿し木の“子ども”だった。あの日、剪定で切り落とした枝を捨てるのが惜しくて、半ば実験気分で鉢に挿しただけ。ところが季節がひと回りするころには、枝ぶりも葉色も母株にそっくりな若木に育っていた。植物のいのちが人の手の中でつながり、次の季節へリレーする――そんな静かな奇跡を、あなたは味わったことがあるだろうか。

バラの挿し木は、園芸本の隅に載るテクニックとしてはあまりに地味だが、実は初心者こそ挑戦すべき驚きに満ちた世界だ。苗を買えば三千円、希少品種なら一万円を超えることも珍しくないこのご時世。枝一本から新苗を育てられる経済性はもちろん、手塩にかけた一枝が翌年つぼみを抱いた瞬間の高揚感は、クレジットカード決済では到底買えない。さらに挿し木は“時間を増やす”という、もうひとつの贈り物をくれる。同じ香り、同じ色彩を持つ株が庭に増えるたび、季節のループは重層的になり、あなたの庭歴は幾重もの物語を紡ぎ始めるのだ。

とはいえ、いきなりハサミを握っても「枝をどこで切ればいいの?」「発根促進剤は必須?」と戸惑うのが普通だろう。そこでここから先は、七千字にわたり“挿し木の舞台裏”を順序立てて紐解いていく。実践派のあなたには作業フローを、失敗経験者のあなたにはリカバリーのコツを、そしてまだバラを育てたことがないあなたにはワクワクを――じっくりお届けしたい。

まず大前提として、バラの挿し木は大きく二つに分類される。春から夏にかけての緑枝挿しと、冬の休眠挿しだ。緑枝挿しは葉のついた若い枝を使うため、活着すれば生育が早い。一方で気温が高く蒸散も激しいので、水切れ対策がシビアだ。半日で土の表面が白く乾くあの真夏日、あなたが冷房の効いたリビングでアイスコーヒーを飲んでいる間に、小さな挿し穂はカラカラに渇いて失神しかねない。それに対して休眠挿しは落葉期の硬い枝を使うため、葉からの水分ロスがない分だけ管理はぐっと楽になる。寒風に当てなければ失敗は少なく、初心者が成功体験を積むには打ってつけだろう。とはいえ冬は待ってくれない。切り戻しのタイミングを逃せば枝は堅く木質化し、発根に余計なエネルギーを要する。どちらが正解ではなく、自分のライフスタイルと気候条件を天秤にかけ、適期を見極める眼が肝心なのだ。

では実際の手順に踏み込もう。剪定ばさみを手に取ったとき、まず探すのは“五枚葉が二節つく健康な枝”。バラの葉は大抵三枚か五枚で一組だが、五枚葉は光合成能力が高く、挿し穂に残すと立ち上がりが良い。長さは五〜十センチほど。ここで「トゲはどうする?」とよく訊かれるが、基本的にそのままでかまわない。むしろトゲの突起が太陽光を拡散し、枝の表面温度を下げる小さなラジエーターになっているのだという説さえある。枝を切ったら、切り口を即座に水につけ、水揚げを三十分──これを怠ると挿し木のスタートラインでつまずくので、面倒くさがらずキッチンタイマーをセットしよう。

次に発根促進剤。粉末タイプなら切り口を湿らせてからまぶし、ジェルタイプなら筆で薄く塗る。ここで「薬に頼るのは邪道では?」と肩肘を張る必要はない。成功率を一気に三倍に押し上げてくれる便利ツールを使わない手はないし、植物ホルモンの合成オーキシンは自然界にもともと存在する物質だ。初心者が失敗を重ねて心を折るより、道具でショートカットして成功に近づく方が、園芸を長く楽しむコツだと私は思う。

土のブレンドは意外と自由度が高いが、私は赤玉土七、鹿沼土三にバーミキュライトをひとつまみ混ぜる配合を愛用している。赤玉土の通気性と保水性のバランス、鹿沼土の酸度調整能力、そしてバーミキュライトの程よい保湿性。これらがタッグを組むと、根が呼吸しやすい“ふんわりベッド”が出来上がる。さらに挿し穂を差し込む穴は割り箸で斜めに開けるのがコツ。垂直ではなく斜めに挿すことで、枝全体に触れる土の量が増え、発根面積が広がる。数ミリの角度の違いが結果を左右すると知れば、土いじりは一気に“精密作業”へと格上げされる。

挿し終えたポットは、半日陰で風通しの良い場所へ。夏なら朝の柔らかな光が差し込み、午後は木陰になる軒下が理想的だ。毎朝、表土を指でつまんでみて、やや湿り気が残る程度を保つ。水はジョウロで“ざざっ”と勢いよくかけるより、霧吹きで“しゅっしゅっ”と全体を包むように吹きかけた方が気化熱で温度が下がり、葉が蒸れにくい。大切なのは“乾かさないけれど過湿にしない”という矛盾した状態を狙うバランス感覚だ。ここで私は毎年、自分の性格診断をされている気分になる。せっかちな私は水やりを忘れるのが怖くて、最初の年に過湿で根腐れさせたことがある。以来、土の表面にヤシガラチップを薄く敷き、蒸発速度を緩やかにする“自分対策”を欠かさない。

さて、一カ月もすると新芽が“こんにちは”と顔を出す。これが発根の合図だが、決して挿し穂を引き抜いて確認してはいけない。根はレースの糸のように繊細で、わずかな衝撃で簡単にちぎれる。観葉植物の根を見たくなる衝動は万国共通らしいが、ここは“見たい気持ちと闘う修行”と割り切って、芽の成長を楽しもう。芽が四〜五センチになったら本鉢へ植え替えるタイミング。植え穴はあらかじめたっぷり水を含ませ、根を乾かさないようにすっと移し替える。その瞬間、挿し穂は名実ともに“一人前の苗”へ昇格する。

ここまでの過程で失敗する人にはいくつか共通点がある。第一に、直射日光に当てすぎ。葉焼けで黄色くなったらリカバリーは難しい。第二に、水切れを恐れるあまり底面給水を続け、用土が常に湿りすぎている。根は酸素不足で呼吸できず、窒息状態に陥る。第三に、一本勝負の精神論。生き物相手に“背水の陣”は必要ない。三本挿して二本枯れても一苗残れば万々歳なのだから、数で担保するのが現実的だ。

では、挿し木を“もっと面白く”する応用編に踏み込もう。例えば、同じ枝を長さごとに切って、短いものと長いもので発根速度を比較する実験。あるいは赤玉土単用、バーミキュライト単用、ブレンド土で成績を比べてみる。こうしたマイクロサイエンスに没頭していると、庭は小さな研究所に早変わりし、子どもも理科の自由研究に夢中になる。さらに、剪定で出た枝を近所の友人と交換し合えば、毎年品種が倍々ゲームで増えていく。苗屋をハシゴしていた頃には想像もしなかった品種が、ある夏、あなたの庭の片隅を彩るかもしれない。

また、挿し木苗は“自根苗”としての個性も魅力だ。一般に市販される接ぎ木苗は、台木との相性で成長が安定しやすい一方、冬の寒さで接ぎ口が傷むと枯れ込むリスクもある。これに対して自根苗はすべてが同じ遺伝子で繋がっているため、傷口が少なく病原菌の侵入ポイントも減る。もちろん生長スピードはゆっくりだが、そのぶん長く付き合える“友達気質”の株に育つ。私は古いモスローズを挿し木で増やし、十年かけてやっと胸の高さに達したその姿を見上げるたび、時間の厚みを感じずにはいられない。

ところで最近は、切り花品種を挿し木で育てる“リビングブーケ作戦”が静かなブームだ。母の日や結婚式の花束から気に入った品種を取り出し、花が終わる前に茎をカットして挿し穂にする。フロリバンダ系やスプレーバラは意外と発根が早く、一年後にはベランダで再び開花することも珍しくない。「花瓶で一週間眺めて終わりだったはずの命が、鉢で二度咲く」――この小さな延命措置は、サステナブルな暮らしの提案としても魅力的に映る。

失敗を糧にしたエピソードも共有しておきたい。梅雨時期に緑枝挿しを十本試した男性は、発根率七割と上々の滑り出し。しかし梅雨明けの猛暑で水切れを起こし、一夜で四株が萎れた。そこから彼は“ペットボトルキャップ点滴”を発明。二リットルボトルに針で小穴を開け、逆さに挿し木ポットへ差してゆっくり水を供給した結果、残り六株は無事夏を越えたという。一方、冬の休眠挿しで大成功した女性は、春に芽が伸びた勢いに喜び勇んで即座に室内へ取り込み、徒長させてしまった。翌年は屋外でじっくり寒さに当て、株を締めることで旺盛な花つきを得たそうだ。どちらの事例も“失敗→工夫→成功”というスパイラルが、挿し木の醍醐味を物語っている。

ここまで読んで、「やっぱり難しそう」と感じたら、まずは切り口を水に浸ける“水挿し”から試す手もある。透明なグラスに枝を立て、発根剤を入れずとも二週間ほどで小さな白いヒゲ根が見えはじめることがある。成功率は土挿しほど高くないが、根が伸びる様子を毎日観察できるのでモチベーションが保ちやすい。根が一センチになったらそっと赤玉土に植え替え、やさしく土を寄せ、あとはこれまで述べた手順に合流するだけだ。

最後に、挿し木で増やした株をどこに植えるかというデザイン面にも触れておこう。母株と並べて“親子共演”を楽しむも良し、フェンス沿いにリズムよく並べて“生垣仕立て”にするも良し。そしてもし庭が手狭なら、鉢を異なるサイズで階段状に配置し、バラの“立体交差”を演出してみてほしい。高さの違いが陰影を生み、花色が交互に現れるたび、あなたは毎朝ベランダに出る足取りが軽くなるはずだ。

――さて、剪定ばさみを研いで、割り箸を一本ポケットに忍ばせたら、もう挿し木の旅は始まっている。失敗を恐れず、むしろ統計を取る気持ちで複数本を挿す。そして芽吹きの瞬間を心待ちにしながら、土を触るたび自分の呼吸がゆっくりになることに気づくだろう。バラの挿し木とは、花を増やす技術であると同時に、暮らしのなかに“余白”を増やす行為でもある。忙しい日々のどこかに、芽を見守る静かな時間が差し込むだけで、季節は少しずつ色濃く、豊かに、あなたのほうへ傾いてくる。

次の春、あなたの庭先に生まれる新しいつぼみは、今日の決断の証しになる。剪定くずだったはずの一枝が、ふたたび空に向かって拳を伸ばす姿を想像してみてほしい。挿し木の世界は、いつだって手のひらから始まり、足元の土で完結する。たったそれだけのシンプルなループが、あなたの人生に驚くほど大きな喜びを運んでくる。さあ、ハサミを開き、小さな冒険の第一歩を踏み出そう。